帝王学の格言⑪真の「ありのまま」とは~「わがまま」との違いから~

最近、コーチングセッションをしていると、

「(私の気持ちに正直になったら)わがままになりませんか?」というような発言を多く耳にします。

とても責任感が強く、真面目に一生懸命に生きている方に多いように感じます。

そのようなとき、私は

「○○さんが少しくらいわがままに振る舞っても、周りの人たちには、そうは映らないと思いますよ」

とお答えすることが多々ありました。

また、少し前には「ありのまま」という言葉がブームになっていました。

そのときにも、「ありのままになるというのは、わがままに生きるということのように感じます。」とおっしゃるクライアントさんがいらっしゃいました。

前回、前々回からの続きとして、今回はこの

「ありのまま」と「わがまま」の違いについて言及していきたいと思います。

それでは、まず、「わがまま」とはどんな状態なのでしょうか?

わがままというのは漢字では「我が儘」と書くようです。

だとしたら、文字通り「我」があるかないかということだと思います。

ここでいう「我」というのは「エゴ」や「我欲」「私利私欲」のことですが、

「わがまま」とは、周りにどういう影響を与えようとも、自分の思うところを押し通したり、場合によってはそれを押しつけたりという強引を併せもっているものです。

自分のエゴや我欲にとらわれ、「恐れ」や「守備本能」から言動・行動をしてしまうと、周りからは「わがまま」に映ってしまいます。

そのエゴや我欲の奥の奥には「愛されたい」「認められたい」といった承認欲求が含まれていることが多くあるように感じます。

自らの存在価値を確認せずにはいられないのです。

また、自分のプライドなどの何らかを守るために、必死になっている状態でもあるようです。

いずれにせよ、堅い鎧を着て、自分を守って、鋭利な刃物で自分の強さを見せつける、そんな姿が「わがまま」なのだと思うのです。

一方、「ありのまま」とはどんな姿なのでしょうか。

「ありのまま」にはそういう強引さはなく、ただ自分が思っていることや感じていることをそのままさらけ出すという感じがあります。

それは、自分を実際より大きく見せることなく、等身大で自然体なあり方を指しているように思えます。

わがままとは逆に、周りを信頼し、勇気を持って自分をさらけ出している姿なのです。

自らを解放しさらけ出す裸の状態が「ありのまま」、鎧を身にまとい武器を手にしているのが「わがまま」、そんなふうに区別することができるのではないでしょうか。

当然、どういうあり方をするかによって周りにどういう影響を与えるかも変わってきます。そして、ここが肝心、要なところなのです。

周囲への影響を考えると、「わがまま」は往々にして周りに恐れや不安を与え、周囲の人たちも同じように鎧やら武器やらを必要とさせてしまうという影響力があります。

一方で、「ありのまま」は周りに信頼や共感を与え、関わった人達をも解放し、同じように裸になってさらけ出すような影響力があるように思います。

ここまでまとめてみて、「ありのまま」か「わがまま」かということは、本人には計り知れないことだと改めて思うようになりました。

おそらく、周りの人たちにどのような影響をあたえているのか、ということなのだと思います。

どんなに本人が「私はわがままに生きる!」とか「俺はわがままな人間なんだ」と宣言しても、周りを魅了し、人を惹きつけてしまう人望と存在感のある人は「あいつのわがままに付き合ってやるか」と喜んで言わしめてしまうように思うのです。また逆もしかりです。

ここで、「ありのまま」の状態をとてもストレートに表現している動画を紹介したいと思います。

2017年にアメリカで制作された『Greatest Showman』というミュージカル映画の制作前のワークショップ中に撮影されたものです。

簡単に映画のあらすじを紹介しておきます。

小さい頃から貧しくも夢想家のバーナムが紆余曲折ありながらもショービジネスの道へと進む。小人症の男、大男、髭の濃い女、全身刺青の男など、世間から隠れるようにして生きていた様々な人を集め、いわゆるフリーク・ショー(見世物小屋)のサーカスを始める、というストーリー。

この動画の中心人物は、髭の濃い女を演じたキアラ・セトルという女性です。セトル自身も素晴らしい歌唱力を持ちながら、この映画で大抜擢されるまでは、決して表には出て行かず、長年バックコーラスとして歌い続けていたのです。

髭の濃い女、というマイノリティな存在を演じるキアラ・セトル自身も、自分を小さくして、陰に隠れながらマイノリティを生きてきました。

そんな彼女が徐々に解放されて「ありのまま」の姿を表出する姿がなんとも美しいです。

あらかじめ、歌詞も紹介しておきます。私は動画を見る以前に、この歌詞で涙が溢れ出てしまいました。

『This is me』

私は暗闇を知ってる

みんなに言われた、「隠れてろ、お前なんて見たくない!」と

体の傷は、恥ずべきものだと学んできた

みんなに言われた、「消えろ、誰も、在りのままのお前なんて、愛さない!」と

でも、心までも壊されるわけにはいかない

私のような人間にも居場所はあるはず 輝く私たちのために

言葉の刃で 私を傷付けるなら 洪水を起こして 溺れさせる

勇気もある 傷もある 在りのままでいる これが私だ

見なさい、私が通る ドラムを叩き、行進するんだ

見られても怖くない 謝る必要もない これが私なんだ

新たな弾丸が 私の肌を撃ち抜いていく

言いたければ言えばいい、だって今日は 恥で沈んだりはしない

バリケードを突き破って進み あの太陽へと 手を伸ばそう

私たちは戦士なんだ そう、私たちはなるべき姿になったんだ

私にも愛される資格がある 値しないものなど 何一つない

鋭利な言葉で 私を切り刻もうものなら 洪水を起こして 溺れさせる

これが勇気なんだ、これが傷なんだ、これが運命を受け入れるって事、

これが私なんだ

まさに、この動画のワークショップでのキアラの姿は、「ありのまま」を体現しているように感じませんか?

「ありのまま」とは傷も弱さも惨めな姿も全てをさらけ出して、ただ今、この瞬間を精一杯生きている、そんな姿のように思います。

心からの「魂の叫び」に周りが共感し、熱くなり、誰もが自らをさらけ出し、「ありのまま」の自分を表出していきます。

それは、多くの人が巻き込まれていく圧倒的な「愛」の形なのではないでしょうか。

そんな自然体の「ありのまま」で在る人がこれからの世の中を変えていくのだと思うのです。

そして、それは国のTOPや会社経営者、多くの部下を持つ管理者といった誰からも分かりやすい形のリーダーの中だけに出現するのではなく、本当に万民の中から草分け的にあらゆる所で出現していくような気がしてなりません。

例えば、学生や主婦、アルバイト店員やパートタイマー、もちろん大手企業の経営者や役員だって構いません。

ただ、どんな役職や立場も関係なく、真っさらに「ありのまま」に生きている人が、真のリーダーになる時代がやってくるように感じてならないのです。

長文読んでくださり、ありがとうございました。

感謝を込めて

※掲載にあたってはお師匠様の許可を頂いているものです。

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