徒然なるままに②「何者かになろう」としなくても 

かなり減ってきてはいるものの

コーチとしてお客様と関わっている中で、

ある種の「葛藤」が起きることがあります。

 

 

 

クライアントの夢は「純粋」なものなのか。

 

 

 

それとも、「何者かになろうとする」エゴなのか。

 

 

 

ということです。

 

 

 

最近では、ずいぶんとその葛藤は少なくなったように思いますが、

 

それでも、まぁ、時々は起こります。

 

 

 

その「葛藤」が起きたときは、

残念ながら、大抵が後者の方が多いようにも思います。

 

 

 

結局のところ、夢が純粋なものだろうが、

「何者かになろう」としてのことだろうが、

結果、夢がかなえば、それで良し、ということもあります。

 

 

たとえ「何者かになろう」として、しがみついた夢だとしても、

そこから自分の役割や存在価値を実感して、

自分の居場所を感じられることもあるからです。

 

 

 

だけど、ふと思うのです。

 

 

 

実は、大抵の人は、気づいていないのです。

「何者かになろう」としなくても、

充分、ありがたい奇跡の連続で生きているということを。

 

 

 

 

ある一編の詩をご紹介したいと思います。

 

 

 

アメリカ人の女性が10歳の息子を亡くし、その悲しみの思いを綴った詩です。

 

 

 

「最後だとわかっていたら」 ノーマ・コーネット・マレック著

 

 

あなたが眠りにつくのを見るのが 最後だとわかっていたら

私はもっとちゃんとカバーをかけて

神様にその魂を守ってくださるようにと祈っただろう

 

あなたがドアを出て行くのを見るのが 最後だとわかっていたら

私はあなたを抱きしめて キスをして そしてまたもう一度呼び寄せて

抱きしめただろう

 

あなたの喜びに満ちた声を聞くのが 最後だとわかっていたら

私はその一部始終をビデオに撮って 毎日繰り返し見ただろう

 

あなたは言わなくても 分かっていたかもしれないけれど

最後だと分かっていたら 一言だけでもいい

「あなたを愛してる」と私は伝えただろう

 

たしかにいつも明日はやってくる

でも もし それが私の勘違いで 今日で全てが終わるのだとしたら

私は今日 どんなに あなたを愛しているか 伝えたい

 

そして 私たちは 忘れないようにしたい

 

若い人にも 年老いた人にも 明日は誰にも約束されていないということを

愛する人を抱きしめられるのは 今日が最後になるかもしれないことを

 

明日がくるのを待っているなら 今日でもいいはず

もし明日が来ないとしたら あなたは今日を後悔するだろうから

 

微笑みや 抱擁や キスをするための

ほんのちょっとの時間を どうして惜しんだのかと

忙しさを理由に その人の最後の願いとなってしまったことを

どうして してあげられなかったのかと

 

だから 今日 あなたの大切な人たちを しっかりと抱きしめよう

そして その人を愛していることを

いつでも いつまでも たいせつな存在だということを そっと伝えよう

 

「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」

を伝える時を持とう

そうすれば もし明日が来ないとしても あなたは今日を後悔しないだろうから

 

 

 

 

この一編の詩が、いつも私に本当に大切なことを思い出させてくれます。

 

 

この詩を読むたびに、こんな風に感じるのです。

 

 

私の両親、きっと理解不能な宇宙人みたいな娘と思っているでしょう。

そんな私を産んで育ててくれて、本当にありがとうございます。

 

私の友人達 さみしがりやのくせに、一人でいたいときは引きこもり、

そんな私とずっとずっと友達でいてくれて、本当にありがとう。

 

私の上司達 せっかく教えても言うことをきかない、

思う通りに動かない部下であった私の上司でいてくださったこと、

本当にありがとうございます。

 

私の同僚達 マイペースで結局は我が道を行く私の同僚でいてくれたこと、

本当にありがとう。

 

私の後輩達 おそらく私が伝えたいことの半分も伝わってなかったと思います。

教え方が上手ではない私の後輩でいてくれたこと 本当にありがとう。

 

私の夫 とてもめんどうくさい私を妻としてくれて、本当にありがとう。

 

私のかわいい子供達、こんなに親として未熟で、

あなた達以上に子供みたいな私の元に生まれてきてくれて、本当にありがとう。

 

私と出逢って下さった全ての方達、

こんな未熟な私と出逢ってくださり、本当にありがとうございます。

 

 

 

「何者かであろう」とすること

実は私にだって、そういう時はあります。

 

 

だけど、ちょっとでも思い出したら良いのだと思うのです。

 

生きているだけで充分ありがたい奇跡の連続であること。

「何者かであろう」としてもいいけど、実は

「何者かであろう」とする必要がないということ。

そして、その方がずっと楽であるということ。

 

 

最後に、年末にもご紹介した

大橋卓弥さんの「ありがとう」をもう一度紹介します。

 

https://m.youtube.com/watch?v=pEZQ_IwvK2M

 

ここまですると、しつこく感じる方がいらっしゃるかもしれません。

それでも、「質濃く」だいじなことをだいじにするために。

 

 

 

長文、読んで下さり、ありがとうございました。

 

 

 

※掲載にあたってはお師匠様の許可を頂いております。

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