帝王学の格言⑪真の「ありのまま」とは~「わがまま」との違いから~

最近、コーチングセッションをしていると、

「(私の気持ちに正直になったら)わがままになりませんか?」というような発言を多く耳にします。

とても責任感が強く、真面目に一生懸命に生きている方に多いように感じます。

そのようなとき、私は

「○○さんが少しくらいわがままに振る舞っても、周りの人たちには、そうは映らないと思いますよ」

とお答えすることが多々ありました。

また、少し前には「ありのまま」という言葉がブームになっていました。

そのときにも、「ありのままになるというのは、わがままに生きるということのように感じます。」とおっしゃるクライアントさんがいらっしゃいました。

前回、前々回からの続きとして、今回はこの

「ありのまま」と「わがまま」の違いについて言及していきたいと思います。

それでは、まず、「わがまま」とはどんな状態なのでしょうか?

わがままというのは漢字では「我が儘」と書くようです。

だとしたら、文字通り「我」があるかないかということだと思います。

ここでいう「我」というのは「エゴ」や「我欲」「私利私欲」のことですが、

「わがまま」とは、周りにどういう影響を与えようとも、自分の思うところを押し通したり、場合によってはそれを押しつけたりという強引を併せもっているものです。

自分のエゴや我欲にとらわれ、「恐れ」や「守備本能」から言動・行動をしてしまうと、周りからは「わがまま」に映ってしまいます。

そのエゴや我欲の奥の奥には「愛されたい」「認められたい」といった承認欲求が含まれていることが多くあるように感じます。

自らの存在価値を確認せずにはいられないのです。

また、自分のプライドなどの何らかを守るために、必死になっている状態でもあるようです。

いずれにせよ、堅い鎧を着て、自分を守って、鋭利な刃物で自分の強さを見せつける、そんな姿が「わがまま」なのだと思うのです。

一方、「ありのまま」とはどんな姿なのでしょうか。

「ありのまま」にはそういう強引さはなく、ただ自分が思っていることや感じていることをそのままさらけ出すという感じがあります。

それは、自分を実際より大きく見せることなく、等身大で自然体なあり方を指しているように思えます。

わがままとは逆に、周りを信頼し、勇気を持って自分をさらけ出している姿なのです。

自らを解放しさらけ出す裸の状態が「ありのまま」、鎧を身にまとい武器を手にしているのが「わがまま」、そんなふうに区別することができるのではないでしょうか。

当然、どういうあり方をするかによって周りにどういう影響を与えるかも変わってきます。そして、ここが肝心、要なところなのです。

周囲への影響を考えると、「わがまま」は往々にして周りに恐れや不安を与え、周囲の人たちも同じように鎧やら武器やらを必要とさせてしまうという影響力があります。

一方で、「ありのまま」は周りに信頼や共感を与え、関わった人達をも解放し、同じように裸になってさらけ出すような影響力があるように思います。

ここまでまとめてみて、「ありのまま」か「わがまま」かということは、本人には計り知れないことだと改めて思うようになりました。

おそらく、周りの人たちにどのような影響をあたえているのか、ということなのだと思います。

どんなに本人が「私はわがままに生きる!」とか「俺はわがままな人間なんだ」と宣言しても、周りを魅了し、人を惹きつけてしまう人望と存在感のある人は「あいつのわがままに付き合ってやるか」と喜んで言わしめてしまうように思うのです。また逆もしかりです。

ここで、「ありのまま」の状態をとてもストレートに表現している動画を紹介したいと思います。

2017年にアメリカで制作された『Greatest Showman』というミュージカル映画の制作前のワークショップ中に撮影されたものです。

簡単に映画のあらすじを紹介しておきます。

小さい頃から貧しくも夢想家のバーナムが紆余曲折ありながらもショービジネスの道へと進む。小人症の男、大男、髭の濃い女、全身刺青の男など、世間から隠れるようにして生きていた様々な人を集め、いわゆるフリーク・ショー(見世物小屋)のサーカスを始める、というストーリー。

この動画の中心人物は、髭の濃い女を演じたキアラ・セトルという女性です。セトル自身も素晴らしい歌唱力を持ちながら、この映画で大抜擢されるまでは、決して表には出て行かず、長年バックコーラスとして歌い続けていたのです。

髭の濃い女、というマイノリティな存在を演じるキアラ・セトル自身も、自分を小さくして、陰に隠れながらマイノリティを生きてきました。

そんな彼女が徐々に解放されて「ありのまま」の姿を表出する姿がなんとも美しいです。

あらかじめ、歌詞も紹介しておきます。私は動画を見る以前に、この歌詞で涙が溢れ出てしまいました。

『This is me』

私は暗闇を知ってる

みんなに言われた、「隠れてろ、お前なんて見たくない!」と

体の傷は、恥ずべきものだと学んできた

みんなに言われた、「消えろ、誰も、在りのままのお前なんて、愛さない!」と

でも、心までも壊されるわけにはいかない

私のような人間にも居場所はあるはず 輝く私たちのために

言葉の刃で 私を傷付けるなら 洪水を起こして 溺れさせる

勇気もある 傷もある 在りのままでいる これが私だ

見なさい、私が通る ドラムを叩き、行進するんだ

見られても怖くない 謝る必要もない これが私なんだ

新たな弾丸が 私の肌を撃ち抜いていく

言いたければ言えばいい、だって今日は 恥で沈んだりはしない

バリケードを突き破って進み あの太陽へと 手を伸ばそう

私たちは戦士なんだ そう、私たちはなるべき姿になったんだ

私にも愛される資格がある 値しないものなど 何一つない

鋭利な言葉で 私を切り刻もうものなら 洪水を起こして 溺れさせる

これが勇気なんだ、これが傷なんだ、これが運命を受け入れるって事、

これが私なんだ

まさに、この動画のワークショップでのキアラの姿は、「ありのまま」を体現しているように感じませんか?

「ありのまま」とは傷も弱さも惨めな姿も全てをさらけ出して、ただ今、この瞬間を精一杯生きている、そんな姿のように思います。

心からの「魂の叫び」に周りが共感し、熱くなり、誰もが自らをさらけ出し、「ありのまま」の自分を表出していきます。

それは、多くの人が巻き込まれていく圧倒的な「愛」の形なのではないでしょうか。

そんな自然体の「ありのまま」で在る人がこれからの世の中を変えていくのだと思うのです。

そして、それは国のTOPや会社経営者、多くの部下を持つ管理者といった誰からも分かりやすい形のリーダーの中だけに出現するのではなく、本当に万民の中から草分け的にあらゆる所で出現していくような気がしてなりません。

例えば、学生や主婦、アルバイト店員やパートタイマー、もちろん大手企業の経営者や役員だって構いません。

ただ、どんな役職や立場も関係なく、真っさらに「ありのまま」に生きている人が、真のリーダーになる時代がやってくるように感じてならないのです。

長文読んでくださり、ありがとうございました。

感謝を込めて

※掲載にあたってはお師匠様の許可を頂いているものです。

帝王学の格言⑩「運も実力のうち」という真実

こちらのページを覗いてくださって、ありがとうございます。

 

 

「運も実力のうち」という言葉があります。

これが、算命学と帝王学、両面から見て、

あ~、本当にその通りだな、とつくづく感じるので、

今回は「運も実力のうち」をテーマにしたいと思います。

 

 

 

さて、そもそも「運」とはなんなんでしょうか?

 

 

 

たまたま得たラッキーな出来事、という解釈もあるかもしれません。

 

 

しかし、算命学の学問上、しっかりした方程式があるので、

ご紹介したいと思います。

 

 

注意:算命学では、「運」=「運命」と表記しています。

 

 

 

運命=(宿命+環境)×生き方・在り方

 

 

 

運命とは宿命(生まれ持った資質・才能・使命等)と環境を足し、

生き方・在り方をかけ算してできあがったもの。

 

 

 

宿命は生まれ落ちた生年月日で知ることができますが、

変えることはできません。

 

環境も生まれ育った場所・両親・兄弟の有無・教育などから、

自然と身の回りに在る存在で、多大な影響を受ける子供時代の環境は

自らコントロールできるものではありません。

 

 

 

ですが、算命学では、宿命も環境も、運命をつくりだす25%と考えています。

 

 

つまり、生き方・在り方が50%を占めるのです。

 

 

この生き方・在り方によっては、

後年の「環境」を自ら創り出すことも可能になります。

 

 

そう考えると、「自ら運命を切り開く」という言葉もしっくりくるものですね。

 

 

 

 

 

さて、「帝王学」の観点でみたときには、どうでしょうか?

 

 

帝王学では、良く「ご縁を積み重ねなさい。」と言います。

 

 

ここでいう「ご縁」とは一般的に指す「人とのご縁」だけではありません。

 

 

「ご縁」はあらゆるものと結ぶことができるのです。

 

 

例えば、学問、知識、智惠、といったものもそうですし、

仕事をする上での、技術、専門性、資格、などもそうです。

仕事でいえば、日々の種まきといった営業活動もあてはまります。

積み重ねてきたキャリアそのものも「ご縁」です。

そして、人脈はもちろんですが、

あらゆる人間関係の中で揉まれた体験・経験も、ご縁なのです。

 

 

「因縁」という言葉があります。

 

ご縁を結ぶというのは、「因」をつくるということ。

 

「善因縁」を積み重ねれば、それが廻り巡って自分に返ってきます。

 

そのとき、私たちは「運が良かった」などと解釈します。

 

 

 

不本意にも「悪因縁」を積み重ねても、

やはり、同じように廻り巡って自分に返ってくるのです。

 

 

そのとき、私たちは「運が悪かった」「縁が無かった」などと解釈するのです。

 

 

 

「運も実力のうち」という言葉を紐解いてみると、

 

いかに「運」を味方につけるような「ご縁」を積み重ねてきたのか、

ということにあるように思うのです。

 

 

 

そもそも、「運」はその準備をしてきた人の前に現れます。

 

前述でいう積み重ねてきた「ご縁」によって「運」が現れるという感覚です。

 

ですが、それだけでは、「運」を掴むことは出来ません。

 

「運」がやってきた時に、それを掴む勇気があること、

 

その掴みとった「運」を手放さないように、傲慢にならず謙虚でいること。

 

そして、日々、当たり前のことを努力し、自らを律し続けること、

 

あらゆる要素が複数集まって、結果、「運が良かった」となるわけです。

 

 

 

「運も実力のうち」という言葉は、改めて、真実だな~と感じてしまいます。

 

 

 

「運も実力のうち」をググったら、北野武さんのこんな言葉が出てきました。

 

なるほど!と思うことばかり。参考までに引用させて頂きます。

 

 

~~~「名言と向き合う」北野武氏より~~~

 

 

『昔から『運も実力のうち』なんて言葉があるとおり、おいらも所詮人間の成功なんて運があるかどうかに尽きると思ってる。』

 

『天才とは、運と才能と、あと努力。ごく普通のことを人一倍やった人だよ。そして運は必要だよ。』

 

例えばたけしの時代に、『お笑いブーム』というものがあったかもしれない。

そしてブームは去り、また訪れて、去り、を繰り返すのかもしれない。

『何でも好き放題やっていい時代』と『自分の芸風』がマッチして、未踏未達を開拓する革命児という異名もほしいままに出来るから、

確かに、その時代、その波、その状況でしか力を存分に発揮できず、後につづくものは、たとえそれよりも革命的なことをやっても、

最初のその人たちを追い越せない、という状況はあって、それはやっぱり『運』と答えた方が、わかりやすいのかもしれない。

 

 

だが例えば、ブームが去ったその後に、ダウンタウンが漫才をやるという時は、既に焼け野原のような状態だった。

そして、そこから這い上がって、時代を築いてきたのが、ダウンタウンなのである。

だとしたら、『運』というのは、『運命』ではなく『気運』のことであり、気運ならば、自分の気持ち一つで巻き起こすことが出来る。

それこそが『運も実力のうち』という言葉の正体であり、何もないところに波は立たないのである。

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

長文、読んでくださり、ありがとうございました。

 

 

 

感謝を込めて。

帝王学の格言⑨最幸のあり方

前々回、

 

「幸せになる」という表現から「幸せである」という表現に変えて

 

現実を捉え直してみる、という観点をご紹介しました。

 

そして、前回はどうしたら「幸せである」人になれるのか、

 

について考察してみました。

 

まずは、シンプルに

 

自分自身に「幸せ」であることを許可する、ということ。

 

何かを達成しなくても、幸せであっても良いのです。

 

幸せは努力の先にあるもの、ではなく、「今ここ」で感じても良いのです。

 

幸せを「先送り」にしなくても良いのです。

 

 

 

 

そして、今回は帝王学の観点で「幸せである」とはどういうことか、

 

を考察したいと思います。

 

 

 

 

帝王学で言っていることも、実は、いたってシンプルです。

 

 

 

 

「エゴや我欲を捨てて、傲慢にならず、謙虚に、

ただただ、目の前の人にお尽くししなさい。」

 

 

 

 

帝王学では、いつも、このことを角度や言葉を変えて言っているのです。

 

 

 

 

これを本当にまっさらな心で純粋に実直に行動できたとしたら、

これほど幸せな生き方はないんじゃないか、と思うのです。

 

 

 

エゴや我欲は過去の痛手から生まれた思い込みや将来への不安によって拡大し、

人間関係における不必要なしがらみで拡散、肥大化していきます。

 

 

 

そのエゴや我欲を捨てることができたなら、

どんなに楽に自然に生きられることか。

 

 

 

 

他者が到底気付かない視点の高さや知見の広さを、

傲慢にならず謙虚さをもって、人に伝えることができたなら、

どれほど多くの人に影響を与えられるだろうか。

 

 

 

 

無我の境地で、ただただ一所懸命に、目の前の人にお尽くしする、

こんな風に生きられたら、奉仕貢献する喜びに満ち溢れるのではないだろうか。

 

 

 

 

人は「利己的」に生きるよりも、

「利他的」に生きた方が

幸せでいられると思うのです。

 

 

 

人に尽くす前に、まずは「自分」から、という考え方もあります。

それはそれで、良いと思うのです。

自分を満たすことはとても大切ですから。

 

 

 

ただ、「帝王」として、自らの人生や時代を切り開いていくということは、

自分=他者であり、他者の幸せ=自分の幸せ

と感じらるのではないかと思うのです。

 

 

 

 

これを本当に純粋に心の底から実感できて、実行に移せる人がいたら、

なんて幸せなあり方なんだろう、と思うのです。

 

 

 

 

最も幸せなあり方、最幸のあり方は、

 

「エゴや我欲を捨てて、傲慢にならず、謙虚に、

ただただ、目の前の人にお尽くしする。」

 

を純粋に実行する人、なのだと思うのです。

 

 

 

 

シンプルで簡単そうに思えて、難しいようにも感じます。

 

 

 

 

でも、やっぱり簡単なんじゃないかな、とも感じます。

 

 

 

 

子供のころに無我夢中になって、遊びに集中した体験。

 

学生時代の部活動などで、チームのために我を忘れた体験。

 

世の中を良くしようと開発に集中したフロー体験。

 

 

 

 

「無我」の境地。

 

 

 

 

そこには過去のしがらみも、未来への不安もなく、

 

 

 

 

やっぱり、「今、ここ」だけに完全にある状態。

 

 

 

「エゴや我欲を捨てて、傲慢にならず、謙虚に、

ただただ、目の前の人にお尽くしする。」

 

 

 

私は正直、できているときもあるけれど、できていない時がほとんどです。

 

 

 

でも、できている時は、本当に幸せだったと思えます。

 

 

 

であれば、できている時を増やすのみ!!精進するのみですね。

 

 

 

 

長文読んでくださり、ありがとうございました。

 

 

 

感謝を込めて。

帝王学の格言⑧「北海の太陽」を別名にもつ星とは

算命学の宿命の中に、「北海の太陽」という別名をもつ星があります。

 

 

「北海の太陽」

 

 

想像してみて下さい。

 

 

極寒の北の国の海を。

 

 

寒さが身にしみる北の地の、そこは海岸。

 

 

凍てつくような風が吹いているかもしれません。

 

 

雪なのか、ひょうかあられか分からないような冷たい氷が

肌に当たるかもしれません。

 

 

海は穏やかでしょうか?

 

 

なんとなく、荒々しい白波が高く迫ってくるイメージをしてしまいます。

 

 

そんな極寒の北の海で、

 

 

ふと、頬に一筋の暖かな太陽の日差しが優しく照りつける。

 

 

ちょうど、雲の合間から顔を出した太陽の光。一瞬の出来事かもしれません。

 

 

どんな感覚がするでしょう。どんな気持ちになるでしょうか?

 

 

太陽の温かさに涙がでるかもしれません。

 

 

太陽の日差しの温かさがこれほどまでに身にしみる状況はないでしょう。

 

 

 

 

 

そうです。

 

 

「北海の太陽」とは、そんな厳しい状況に追い込まれている人の

太陽のような存在なのです。

 

 

 

それでは、その「北海の太陽」を別名にもつ星とは何でしょう?

 

 

それは「調舒星(ちょうじょせい)」という星です。

 

 

火性である伝達本能、陰の星。

 

 

伝達本能を司るわけですから、

当然、人に想いを伝えることを使命としています。

 

 

ですが、この調舒星、人に想いを伝えるのに口(言葉)を使わないのです。

 

 

この星は、とても繊細でデリケートな面を持ち合わせていて、

口が達者ではありません。

 

 

想いは溢れるほどにあるのに、言葉が出ないのです。なんとややこしい!!

 

 

じゃあどうするか???

 

 

そうなんです!

人によっては、音楽や美術といった芸術の世界で、

想いを分かち合おうとします。

 

 

これは、調舒星が最も分かりやすく開花した人の場合です。

 

 

でも、多くの人は、それがなかなかできない。

 

 

通常の人よりも溢れる想いがあるのに、伝えられない・・・。

 

 

それに、もがき、苦しみ、傷つき、孤独になる。

 

 

そして、傷ついた分だけ、調舒星の器が広がる。

 

 

調舒星の器が広がると、言葉を必要としなくなる。

 

 

ただ、そこに存在するだけで、傷ついた人に寄り添える温かい人になる。

 

 

「北海の太陽」は実は、たくさんたくさん傷ついた人が、

行き着く究極の「優しさ」なのだと思うのです。

 

 

 

調舒星をもったあるクライアントさんがこんなことをおっしゃいました。

 

 

 

「あとどれくらい、傷ついたら北海の太陽になれますか?」

 

 

 

その当時、未熟な私は、本当にどうしようもない返事をしてしまった。

 

 

 

「それは質と量のかけ算だから、なんとも言えないです、、、」

 

 

 

なんてアホなんでしょう。

 

 

とっさに当たり障りのない無難な回答をしてしまった。

 

 

 

タイムマシーンがあるのなら、戻って、自分自身をぶん殴ってやりたい。

 

 

目の前にいらっしゃるクライアントさんが

 

 

 

「あとどれくらい、傷ついたら北海の太陽になれますか?」

 

 

 

とおっしゃっている。

 

 

そうおっしゃる生き様や背景を瞬時に掴みきれなかった。

 

 

その当時の私の耳元で、こう言いたい。

目の前にいる人をもっと全心身で感じなさい、と。

 

 

この方は、とても凜とした透明感のある強さをもった人。

 

 

とても「もう傷つくのはごめんだ。早く北海の太陽になりたい。」と

嘆くような人ではありません。

 

 

 

「あとどれくらい、傷ついたら北海の太陽になれますか?」

 

 

 

この方は

 

 

傷ついた誰かの北海の太陽になれるのであれば、

私はいくら傷ついても構わない。

だから、教えて下さい。あと、どれくらい傷つけば良いのかを。

 

 

 

とおっしゃていたのです。

 

 

 

タイムマシンでこの頃に戻って、私自身をぶん殴った後、

私はこの方を心の中で抱きしめて、こう伝えたい。

 

 

 

「(そのような質問がでてくること、それ自体で)

あなたは充分、「北海の太陽」ですよ。」と。

 

 

 

あの頃の私の器では、この言葉を出せませんでした。

 

 

この仕事をしていて、本当に自己研鑽と謙虚さが大事だと痛感する体験でした。

 

 

できることならば、

このブログをあなたが読んでいてくれることを切に願います。

 

 

 

そして、ここまで読んで下さった全ての方へ。

 

 

 

調舒星をもっていてももっていなくても、

 

 

 

あなたが傷ついた体験・経験は決して無駄にはなりません。

いつか、だれかの傷ついた心に寄り添う糧や力になるときが必ずくるから。

 

 

 

「北海の太陽」は誰でもなれるのです。

 

 

 

誰かの北海の太陽になるために。

 

 

 

あなただけにしか救えない誰かのために。

 

 

 

傷つくことを恐れなくてもいいのです。

 

 

 

何か自分にとって苦しく辛い場所にいなければいけないとき、

 

 

選択できる行動は3つしかありません。

 

 

 

・自分にとって居心地の良い場所になるよう努力する。

・その場所から離れる。

・その現実を受け入れる。

 

 

 

少しでもその場所が居心地のいい所に変わるようにと努力しても難しく、

その苦しみや辛さから抜け出そうと、どうあがいても、

出口が見つからないとき、そんなときは、この体験・経験をする必要が

あるのだ、と受け入れるしかないのです。

 

 

 

そうして、その現実を受け入れ、その苦しみ辛さを味わい切ったとき、

「北海の太陽」としての人間力が増していくのです。

 

 

 

だけどね、時には傷つくことから逃げたっていいんですよ。

(特に修行好きの人は逃げることを選択のひとつに入れて下さいね)

 

 

 

逃げて良いときのサインはすぐに分かります。

「こっちだよ」という光が見えてきますから。

 

 

 

ここまで読んで下さり、ありがとうございました。

 

 

 

感謝を込めて。

帝王学の格言⑦「いかにあるか」について考える

「いかにあるか」

 

 

前回、前々回と同じテーマで違う角度から考察してみました。

一番はじめは、コーチとしての観点で

次に、私個人の意見として、徒然なるままに書いてみました。

 

 

 

 

今回は3回目ですが、「帝王学の格言」として考えてみます。

 

 

 

今まで書いてきたことと逆説的に感じるかもしれません。

正解を求めるのではなく、問いを持ち続けて観点を変える。

まるで、禅問答のようですが、なんかしらの力になるかもしれません。

どうぞ、お付き合い下さいませ。

 

 

 

 

「いかにあるか」を帝王として問うたとき、

 

 

 

「いかにあるべきか」にニュアンスが近いように感じます。

 

 

 

と以前も書きました。

 

 

 

その「いかにあるべきか」はどのような在り方なのか。

 

 

 

人の上に立つ立場にある方で、

内面からの人間力をもったカリスマ性のある人達に共通すること。

その共通することが、帝王としての「いかにあるべきか」なのだと思います。

 

 

 

話は少しそれるように感じるかもしれませんが、

以前も書いたように、算命学/陰陽五行論では

「ありのまま」という言葉をあまり使わないのです。

それは、帝王学の要素が多分に含まれた学問であるからです。

 

 

 

 

帝王は「ありのまま」を自分に向けて、使わないのです。

 

 

 

帝王が「ありのまま」を使うときには、外側に向いているのです。

 

 

 

目の前にいる人、周りの人達、自分が置かれた状況や環境、市場や世界、

生まれた時代、国や地域の事情などなど、、、、、

 

 

 

あげればきりがありませんが、

そういったことを「あるがまま」に受け入れるのが帝王なのです。

 

 

 

「不都合が常と思えば不都合なし」とは、徳川家康の言葉ですが、

 

 

 

世の中の不条理、不安定さ、理不尽な数々は、

当たり前であるとおっしゃっているのだと思います。

 

 

 

「思いどおり」にいくことなんて、本当に数少なく奇跡のような幸運なのです。

 

 

 

思いどおりにいかないことの方ががほとんどなのに、

それを無理して「思いどおり」にしようとするから苦しくなるのです。

 

 

 

周囲を変えようとする努力は無駄、しない方がいい、

ということを言っているわけではありません。

 

 

 

自分の置かれている環境に対して、まずは、あらがうことなく、

逆らうことなく、そのまま「受け入れる」。

とにかく、ありのままを「受け入れる」ということなのです。

それが、どんなものであっても。

 

 

 

その状況や環境の全ては、「今」の自分にとって

「ちょうど良い」のです。

 

 

 

親も、子供も、夫も、妻も、会社も、同僚も、上司も、部下も、

友達も、仲間も、ご近所さんも!!

 

 

 

もう一度言います。

ご縁の全てが「今」のあなたにとって

「ちょうど良い」ものばかりなのです。

 

 

 

今、目の前のご縁は、過去の自分が紡いできた結果でしかありません。

 

 

 

だから、全てのご縁(結果)を受け入れなさい、

と言っているのが帝王学なのです。

 

 

目の前のご縁を否定するということは、過去の自分を否定することになるから。

 

 

 

 

これは、とても厳しい視点のように感じるかもしれません。

私もこの厳しさに打ちのめされたように感じたものでした。

 

 

 

ですが、一番楽な視点でもあるのです。

誰にとっても「真実」に近いんじゃないかと思うのです。

 

 

 

 

「私たちはみな平等です。そして宇宙とは、私たちのお互い同士の関係です。

宇宙はただ一種類の実体からできていて、その一つひとつが生命を持ち、

一つひとつが自分の存在の仕方を自分で決めています」

タデウス・ゴラス著「なまけ者のさとり方」より

 

 

 

私が大好きな言葉です。

 

 

 

帝王はこういったことを明白に理解していて、

周囲の人達や状況をコントロールしようとせず、

曇りのない真っさらな目で真っ直ぐ事実だけを

見ることができる人なんだと思います。

 

 

 

みなさんも経験があると思います。

ひとつの現実に対して、見ていることやその現実に対する解釈が

人によって全く違うことを。

まるで、現実がいくつも存在しているかのように。

同じ現実に直面していたとしても、10人いたら10人の現実があるのです。

 

 

 

見ている立場や視点が変われば当然ではありますが、

実は、自分が現実だと思っていることを疑う視点もあった方がいい。

 

 

どれだけ多くの人が自分にとって都合の良いように

(あるいは都合の悪いように)物事を見たり聞いたり、

見なかったり聞かなかったりしていることか!!!!!(もちろん私も含めて!)

 

 

 

帝王とは、物事を真っさらに「ありのまま」に「そのまま」に

見ることができて、あらがうことなく、逆らうことなく、

そのままを「受け入れる」人なのです。

 

 

 

現実を真正面から受け入れて、

初めて、本当に「今、するべきこと」がわかるのです。

 

 

 

マネジメント経験のある方にとっては、

理屈ではなく身体で分かっていることかもしれません。

ですが、それがどれだけ難しいことかも、よ~く分かることと思います。

 

 

 

では、どのようにしたら、周囲の全てを「あるがまま」に

受け入れられるようになるのでしょうか。

 

 

 

瞑想する???

 

 

 

それも、有効と思います。

瞑想することで、頭の中がクリアになり心にスペースができるから。

 

 

 

ですが、やっぱり、自分の内側の声をどれだけ「あるがまま」に

受け入れてきたか、なのだと思うのです。

またまた、元に戻ってしまった感がありますね(笑)

それでも、どう考えても、やっぱり、

自分の内側の声に寛容になれるかどうかなのだと思うのです。

 

 

 

 

自分に対して「寛容」であればあるほど、

周囲に対しても「寛容」でいられるのです。

 

 

 

 

自分の内側に住んでいる、あらゆる自分に対して、

自分だけが「Yes」を言ってあげられるのです。

怠け者の自分も、鬼教師の自分も、弱くてダメな自分も、

攻撃的な自分も、恥ずかしい自分も、、、、、

「そのままでいいんだよ。」ってね。

 

 

 

そしたら、きっと少し楽になる。

 

 

 

そして、怠け者の部下や鬼教師のような上司に対しても、

「あ~、こういうのもあるよね。」という感じにサラッと受け入れられる。

 

 

 

 

いつもの自分じゃない自分、普通じゃない自分が現れたとき、

その度に繰り返し繰り返し、そういう自分が存在していることを認めていく。

 

 

 

その量が、ある一定の飽和量を超えたとき、

 

 

 

どんな状況に置かれても、物事全てをあるがままに受け入れる

帝王の自分が現れるのだと思います。

 

 

 

 

共にこの算命学/陰陽五行論を学んでいる経営者が

こんなことをおっしゃっていました。

 

 

 

 

「ここで学び初めてから、私が会議で発言することがほとんどなくなりました。

なんかしらのミス・トラブルがあったとしても、私が動くこともない。

経営者の立場というのは「ただ在るのみ」なんだと、つくづく感じています。」

と。

 

 

 

 

この方は、とある業界では有名な社長さんです。

とても安定した穏やかさを持った方です。

 

 

 

こんな暖かなまなざしで、暖かく見守ってくれる人がいる。

安心感に包まれた本領発揮できる職場になるんじゃないかな、と感じました。

 

 

 

あなたにとってなんかしらの力や栄養になりますように。

長文、読んで下さり、ありがとうございました。

 

 

感謝を込めて。

帝王学の格言⑥不都合があるのが当たり前

「不都合を常と思えば不都合なし。」これは徳川家康が残した言葉だそうです。

 

世の中には完璧なものはありません。

だから、不都合があって当たり前なのです。

 

これを理解すると何があっても、そうそう落ち込まなくなります。

 

そして、何事も受け入れるようになるのです。

 

思いどおりにならないことの方が多い人生の中で、

 

時々、自分の思いどおり、願いどおりになることもある。

 

それは多々ある出来事の中で、

幾千万もの因が重なり合って起きた本当に奇跡のような幸運なのです。

 

だから、幸運はほんの一瞬、一握りのときに感じられれば、それで良し。

 

「不都合」の方が「常」であるのが当然のこと。

 

何があっても、一喜一憂する必要はありません。

 

何かあったら、そこから人生を創り出していくしかないのです。

 

そんな風に考えられるようになると、前向きに捉えることが多くなり、

 

よい結果を引き寄せるようになっていくのではないかと思うのです。

 

 

 

算命学/陰陽五行論は「帝王学」として、2500年も前から古来中国や日本で、国のリーダーや権力者が学んでいた学問でもあります。

 

ですから、「帝王学」といった観点で、徳川家康がこの学問を学んでいた可能性も多いにあるわけですね。

 

余談ではありますが、「帝王学」を学んでから、古い大河ドラマを観ることが趣味になりました(笑)

 

特に戦乱の時代は、仁義礼智信が備わった人徳が高い人に、人が集まっていく姿がよく描かれていて、とても勉強になります。

 

徳川家康は、まさに「帝王学」そのものを生きていたように感じます。

 

この学びはどこまでも掘り下げられ、探求が止まらない、永遠の学びになりそうです。

 

感謝を込めて。

帝王学の格言⑤宝塚「ブスの25箇条」からみる魅力の高めかた

帝王学では人としての魅力を引力本能、信徳と表現します。

 

人としての魅力から、人脈、仕事、財力を引き寄せる、

ということで引力本能なわけです。

 

信徳とは、人から信頼され信望されること、

そして何よりも自分自身を信じる強さをも意味します。

 

 

人として生まれた以上、引力本能である信徳を高めたい、

磨きたいと願うのが自然なことと思います。

 

 

しかし、帝王学では、このように言っているのです。

 

 

「信徳のみを単独で身につけることはできない。

大いなる魅力を放ち、人からの信頼を得たければ、

仁義礼智の四徳が備わっていなければならないのだ。

すなわち、愛情をもって人に接し(仁)、裏切らないで筋を通し(義)、

礼節をわきまえ(礼)、本質を学ぶこと(智)。

これを日常で積み重ねていくことで信徳が輝き出す。

そして、この積み重ねから圧倒的な魅力を放つようになるのだ。」と。

 

 

自分を磨くための指針として、

もう少し分かりやすいものはないかと探していたところ・・・

 

 

あったのです!!

 

その名も

宝塚「ブスの25箇条」

 

もちろんこのままでは「ブス」になってしまうので、

後ほど逆転させてみますが、ひとまず、こちらをご覧ください。

 

 

宝塚「ブスの25箇条」

1.笑顔がない

2.お礼を言わない

3.おいしいといわない

4.目が輝いていない

5.精気がない

6.いつも口がへの字をしている

7.自信がない

8.希望や信念がない

9.自分がブスであることを知らない

10.声が小さく、いじけている

11.自分が正しいと信じこんでいる

12.愚痴をこぼす

13.他人をうらむ

14.責任転嫁がうまい

15.いつも周囲が悪いと思っている

16.他人に嫉妬する

17.他人につくさない

18.他人を信じない

19.謙虚さがなく傲慢である

20.人のアドバイスや忠告を受け入れない

21.何でもないことにキズつく

22.悲観的に物事を考える

23.問題意識をもてない

24.存在自体が周囲を暗くする

25.人生においても、仕事においても、意欲がない

 

 

こちらは、宝塚の舞台裏に常に貼ってあるものだとか。

では、こちらを逆に表現してみて、主観ではありますが、

仁義礼智信に振り分けてみました。

 

 

宝塚「美人の25箇条」

1.いつも笑顔である(仁、信)

2.いつも感謝の気持ちを表現する(仁、義、礼)

3.おいしいと言う。いつも美味しそうにご飯を食べる(仁、礼)

4.目が輝いている(信)

5.精気に満ちている(信)

6.いつも口角が上がっている(信)

7.いつも自分を信じている(仁、信)

8.希望や信念を持っている(義、信)

9.周りから見て、美人であるように心がける(仁、義、礼)

10.声が大きく、活発である(義、礼)

11.自分は間違っているかもしれないという視点を持っている(智、義、礼)

12.愚痴をこぼさない(義、礼)

13.他人をうらまない(智、義)

14.責任転嫁せず、自ら責任を引き受ける(仁、信、義)

15.周囲のせいにせず、自分ができることを考える(仁、智、義)

16.他人に嫉妬しない(智、義、礼)

17.他人に尽くす(仁、信、礼)

18.他人を信じる(仁、信)

19.謙虚でエゴをださない(仁、信)

20.人のアドバイスや忠告に耳を傾ける(仁、義、礼、智)

21.簡単には傷つかない(仁、信)

22.楽観的に物事を考える(仁、信)

23.問題意識をもてる(義、礼、智)

24.存在自体が周囲を明るくする(仁、信)

25.人生においても、仕事においても、意欲に満ちている

(仁、義、礼、智、信)

 

 

いかがでしょうか?

 

 

さすが「清く正しく美しく」の宝塚!!

 

 

古典的、伝統的なことを守り続けているものは

帝王学的なものの見方と通ずるものを感じます。

 

全てというわけにはいかないものの、

どこかひとつでも意識して、日常で自己研鑽する参考にして頂けたら。

 

読んでくださり、ありがとうございました。

帝王学の格言④学問を司る星の別名とは

学問や知性などの智徳本能を司る

玉堂星(ぎょくどうせい)という星があります。

 

 

別名「幸せ星」。

 

 

初めて聞いたときは、学問や知性の星なのに、

何故、「幸せ星」と呼ぶのだろう、と疑問に感じたものでした。

 

 

愛情や奉仕、優しさを司る禄存星(ろくぞんせい)の方が、

「幸せ星」と呼ぶのにふさわしいのでは?とも考えました。

 

 

しかし、学問や知性を司る玉堂星が「幸せ星」と呼ばれているのです。

玉堂星は他にも、伝統・正統といった古典的な意味合いや

理論家といった意味も含まれています。

まさに智徳本能を司る星ですね。

 

 

帝王学では、「人は知性がないと幸せになれない」といいます。

逆に知性が豊かであればあるほど、幸せである、ともいえるのかもしれません。

 

 

素晴らしい絵画や音楽といった芸術に触れたときに、

「あ~、なんて素晴らしいのだろう!」

と感じる感性がなければ、感動もできません。

 

 

凡人にはとうてい真似の出来ないような伝統的な職人技に触れたとき、

その難しさや、そこまで鍛練を重ねた厳しさなどを思い計れば、

感動もひとしおになります。

 

 

世界を変えてしまうような新しい考え方やテクノロジーの進歩といったものも、

それが、どれほど世の中に価値を生み出すものなのか、

を理解できて初めて豊かさを実感できるのです。

 

 

家族そろって夕食を頂ける。

当たり前の日常の出来事であっても、知性を働かせれば、

それが幾重もの偶然が重なって実現している奇跡的なこと、

と感じることが出来ます。

 

 

また、玉堂星には「純粋、慈愛」といった意味も含まれています。

 

 

まっさらな心で、純粋に世界に好奇心を向けて、

慈しみの愛の目で見て聞いて感じたら、

自ずと、あらゆることが探求の種になるのだと思うのです。

 

 

算命学が生まれた2500年前も現在も、人というのは知的欲求に満ちていて、

その本能のままに生きて、世界を探求し続けて、現在の私達がいるのですしね。

 

 

そして、そのことを「幸せである」と定義しているのが、

この学問の面白いところであると感じるのです。

 

 

せっかく人として生まれてきたからには、

心を開いて謙虚に、一生涯、学び続けていきたいと思うのでありました。

帝王学の格言③運は動より生ず

「運動」という言葉があります。

 

一般的には身体を動かし鍛えたり、スポーツを楽しむときに使われています。

小学校中学年では習う漢字だけに、親しみ深い常用語ではないでしょうか。

 

 

 

この馴染み深い「運動」という言葉、

実は、帝王学では、非常に奥深い意味を持っています。

「運」と「動」を分解させて、

「運は動より生ずる」という意味を持つのです。

「運(命)」は「動(動くこと)」から「生ずる(生まれる)」のです。

 

 

 

「運が良かった」「運が悪かった」という使われ方をされるように、

「運」とは、自分ではコントロールしがたい、偶然的なもの、

という見方や考え方が多くを占めているように感じます。

 

 

 

ですが、帝王学では

「運は動より生ずる」と考えるのです。

動けば、「運」は自ずとついてくるのです。

 

 

 

 

リクルート時代、

「走りながら考えろ。」という雰囲気がありました。

逆に「良く考えてから動きなさい。」とは言われたことがありません(笑)

おかげさまで、

とにかく動いていれば、道が開けていくことを身体で学んだ気がします。

 

 

 

あれこれ考えずに、とにかくやってみる。

 

 

 

これは案外、大事なことと思います。

成功者の多くは、このことを自覚的にしろ、無自覚にしろ、

やっていると思うのです。

 

 

そして、なにかの物事をやりはじめたら、

無心になって目の前のことに集中すること。

 

 

 

あれこれ考えずに、とにかくやり続けてみる。

 

 

 

結果、成果、周囲の評価に拘らず、気をとられず、とにかくやり続ける。

そう!!私が今まさに、書いているこのブログのように(笑)!!

 

 

 

そうすると、何かの目標・目的の為にやりはじめたことが、

やること、体験することそのものが、目的になる。

結果や成果はどうでもよくなる。

 

 

この領域にきたら、そのこと自体、やっていること自体が楽しくてしょうがない、となる。

 

 

結果や成果を目標・目的にするのも若いうちは良いと思うのです。

ですが、

この体験・経験すること自体が目標・目的になる世界もまた、美しいものです。

 

 

「今、ここ」にいる感覚、

「今、ここ」の世界観はこのような感じなのではないかと思うのです。

 

読んでくださったあなたへ感謝をこめて。

帝王学の格言②仁義礼智信について

「帝王たる者、仁義礼智信の五徳をバランス良く生きるべきである。

どこか一方に偏るべきではない。」

 

算命学/陰陽五行論の先生がよくおっしゃる言葉です。

 

私は、これまでの人生の中で、数々の不義理や無礼をおかしてしまいました。

この学びは6年目だというのに、なんとも情けない不徳者でございます。

 

特に「どこか一方に偏るべきではない」とは、私にとって胸に痛い言葉です。

 

改めて、仁義礼智信のそれぞれの意味を自分のためにも書き記しておきます。

 

仁徳・・・思いやりと優しさで人と接すること。慈悲の心で万人を愛すること。

義徳・・・筋を通すこと。自己の私利私欲にとらわれず、人として正しい道を生きること。

礼徳・・・礼儀を重んじること。親兄弟、夫婦、社会的な上下関係等の間で礼儀作法を大切に言動・行動すること。

智徳・・・学ぶこと。学問に励み、知識を得て正しい判断が下せるようになること。

信徳・・・人から、信頼・信用を得るように生きること。約束を守り誠実に生きること。

 

私の場合、仁徳に偏る傾向があります。宿命的にもそのような星をもっています。(しかも3つ!!)

 

「愛情深い」というのは、一見素晴らしい人格者に見えるかもしれません。

 

ただし、「どこか一方に偏るべきではない」というのがこの学問の教えです。

 

例えば、仁徳だけに優れていたとしても、礼徳に欠けていて我が子にしっかりとした礼節を身をもって示さなければ、深い愛情もただの甘やかしに転じてしまいます。

 

また、智徳に欠けていて知識や教養がなければ、無意味な○○基金に募金してしまうかもしれません。貧国といわれる子供達に必要なのはお金や物資ではなく、学校や働き方を教えてくれる人や場所なのかもしれません。

 

そう考えると、仁義礼智信、五徳をバランス良く生きるというのは、理にかなっているのだと思います。そして、仁義礼智信を仮に定量化できるとして、ひとつでも「0」があると、全てが「0」になるというのが、この学問の厳しいところ。(実際に宿命表では数値をみることができます。)自分を律するためのメモ書きとして。