【セルフコーチング⑧】気持ちや感情は大切な情報

こちらのページをご覧頂き、ありがとうございます。

今回のセルフコーチング⑧は前回の⑦の続きになります。

なので、セルフコーチング⑦枠を超えた見方・考え方をする方法の復習から始めますね。

少し、長文になってしまいますが、最後まで読んでくださったら嬉しいです。

前回、かつて私たちは多くの場合、人や物事に対して善悪価値判断で見ることが前提になっていると言及しました。

善し悪しは「正しい」「間違っている」とも言い換えられ、当然、私たちは「良い人」や「正しい人」に分類されるために必死に生きてきたのです。

そして、私たちは自分の正しさを証明するために、「悪い事・人」や「間違っている事・人」を無意識・無自覚に探してしまいます。

同質の者同士だと安心安全を感じ、異質な者に対して、恐れや恐怖を感じ叩いてしまう。

それが集団になってくると、子供のいじめや仲間はずれが起こります。

さらにその集団化されたエネルギーが強烈にエスカレートすると、差別や偏見といった分断された世界が生まれ、ついには宗教間、国同士の戦争までをも引き起こしてしまうのです。

そうです。善悪の価値判断が前提になっていると、「分断」が起きてしまうのです。

Withコロナの時代に必要なのは「連帯」とよく取り上げられています。

以前のような善悪価値判断が前提の考え方にとらわれていては「連帯」を生み出すのは難しくなるのです。

そうになったとき、次のように考えてみることを提案しました。

全ての物事は、必要があってこのようになっているんだ。

全ての人が価値ある存在で、全ての人が役割を持って生まれてきたんだ。

さて、ここまでが前回の復習です。

ここからが今回の本題です。実は、私たちは気持ちや感情にまで、善悪の価値判断をしてきたのです。

ポジティブ、ネガティブ、と善悪で切り分け、悪いと言われている怒りや悲しみ、嫉妬や妬みといった感情は抑圧すべきだと考えられてきました。

子供の頃から、怒ったり泣いたりすると、「わがまま言うんじゃありません」などと叱られてきました。

なにか嬉しいことがあって大喜びしても「そんなに浮かれるものじゃありません」と言われてしまうのです。

特に日本人は、自分の感情を素直に表現することを「はしたない」といった理由で、抑えつけるような教育を受けてきたように感じます。

子供時代に感情を抑えることを学ぶのは、とても大事なことではあります。

そうしないと、社会秩序が乱れてしまい、極端に表現すると、法の下の平等も崩れてしまうからです。

そうならないよう、感情の赴くままに暴走してしまわないよう、子供のうちから訓練されてきたのです。

「我慢しなさい」「我慢しなさい」「我慢しなさい」と。

そして、大人にとって都合の良い子が「優秀」で「良い子」とされてきたのです。

特に、「優秀」で「良い子」と言われてきた人達の中には、

自分の正直な気持ちを抑えつけているうちに、それが当たり前になってしまい、

抑えつけているという感覚もないままに、自分の気持ちや感情を感じなくなってしまうことがあるのです。

そして、こんな状態がエスカレートすると、

自分が何をしたくて、何を喜びと感じて、どんなことをしていると楽しいか、

といった自分の「望み」や「喜び」までも分からなくなってしまうのです。

実は、「何をしても楽しく感じません」や極端な状況ですと、

「楽しいとか嬉しいとか、良く分かりません」といった言葉を発する大人が結構いらっしゃいます。

実は、そんな方達の多くは、社会的ステータスが高く、子供の頃から真面目で優秀だったという方に多く感じます。

それでは、どうしたら良いのでしょう。

気持ちや感情はいったいどこからやってくるのでしょうか?

気持ちや感情は、単なる「情報」です。

気持ちや感情は自分の「魂」から発せられた「情報」なのです。

魂が「快」を感じているのか、「不快」を感じているのか、

魂が「好き」なのか、「嫌い」なのかを知らせてくれているのです。

気持ちや感情に耳を傾けると、

私たちが何を望んでいるのか、何を大事に生きていきたいのか、

が分かってきます。

私たちは魂が望んでいることを体験すると「喜び」や「楽しさ」、「わくわくした気持ち」「希望」や「安心感」「愛」などを感じます。

もっと言うと、自分が大事にしたい「価値観」を大切にしていると、ポジティブな感情を味わえるのです。

逆に私たちは魂が嫌なことを体験すると「怒り」や「悲しみ」「嫉妬」や「妬み」「恐れ」や「恐怖」などを感じます。

もっと言うと、自分が大事にしたい「価値観」を大切に出来なかったり、蔑ろにされたりすると、ネガティブな感情を味わってしまうのです。

じゃあ、ポジティブな感情だけを味わえるようにするにはどうしたらいいの?

と思わず、楽な方を選びたくなってしまうのが心情ですが、そんなことは不可能なのです。

どうしたって、自分の魂の声や価値観を大切に出来ない蔑ろにせざる負えない体験・経験は生きている限りあるものなのです。

例えば、大切な人が亡くなってしまった時や同僚が先に昇進する、長く付き合っていた人と別れる、大失恋するなど、避けようがありません。

どうしたって、他に例えようのない大きな悲しみやさみしさ、孤独感や絶望感を感じてしまうものなのです。

それが人間なのです。

悲しみや怒りを感じることは悪い事でしょうか?

いえ、とても純粋で正直な気持ちなら、「美しさ」すら感じるはずです。

「怒り」のエネルギーはとてつもない強烈な原動力になることを多くの方が知っていると思います。

ネガティブな感情は決して悪いものではないのです。

ネガティブな感情が生まれるような体験・経験も、

その時、その瞬間に必要があって、その体験・経験をしているのです。

そんな気持ちや感情にまで、善悪の価値判断を持ち込んでしまうと、おかしなことになってしまいます。

ある人に対して思わずネガティブな感情を抱いてしまったとします。

「嫌だ」「嫌いだ」「嫉妬してしまう」といったことが悪いことと決めつけていると、

思わず「この人が悪い人なんだ」「この人のこういう所が間違っている」と瞬間的に考えてしまうのです。

この考え方の裏にあるのは、「私が良い人」で「私が正しい人」でなければならないから。

「良い」私、「正しい」私が人を嫌ったり、嫉妬するわけがない、のです。

悪いのは、間違っているのは、この人で、私ではない、のです。

その事を証明するために、同士を探し出したくなるのが人の性。

「ねぇ、あの人って、こういうところが間違ってるよね。」と。

こんな一連の流れを瞬間的に反応的に何万分の1秒という早さで行ってしまうのも、また人間なのです。

だから、先に申し上げたのは、気持ちや感情は単なる「情報」なのだ、ということです。

「魂」の声をキャッチアップした結果でしかありません。

魂の声は至って、単純です。

「快/不快」「好き/嫌い」

以上、終わり。なのです。

つまり、私たちは個人の「快/不快」「好き/嫌い」にいちいち理由をつけていたのです。

善悪価値判断というジャッジメントを。

なにかの出来事・人に対して思わずネガティブな感情が沸いてしまったら、

「あぁ、私はこの事が不快なんだなぁ。」

「あぁ、私はこの人のこういう所が嫌なんだなぁ。」

と味わえば良いのです。それ以上でもそれ以下でもありません。

それだけで、充分なのです。

感情に蓋をしてしまったり、気持ちを抑えつける必要はありません。

ただただ味わうのです。

なぜなら、必要があってその出来事が起こり、

必要があって、その人と出会っているからなのです。

大人になって役割が増えると、この感情を純粋に素直に

味わうということがますます難しくなってきます。

「社長として」「部長として」「部下として」「父として」「母として」「夫として」「妻として」

「大人として」振る舞わなければならない場面が多くなればなるほど、

自分の素直な感情を感じ吐露するなど、ますます出来なくなってしまいます。

けれど、本当の自分を知りたければ、

どうか自分の気持ちや感情に耳を傾けてください。

気持ちや感情に善悪価値判断をつけず、ただただありのまま感じてみてください。

大声で笑って喜んでも良いし、悔しくて大きな声で泣いても良いのです。

怒りが爆発しても良いのです。誰も見ていないところなら枕を殴ったって良いのです。

感情をそのまま味わって、吐露すると、その感情は完了します。

それが「スッキリ」したという感覚です。

そうなんです。気持ちや感情は「スッキリ」するまで味わえば良いだけなのです。

蓋をして抑圧すると、その感情や状態は継続します。

受け入れずに抵抗していると、長引くのです。

感情を大切にするとは、自分の気持ちや感情を受け入れて受容すること。

寛容であることなのです。

そんなことをしていては、「わがまま」な人間になってしまはないか?

思わず、そんな問いが生まれてきそうですね。

次回は、そのあたりのことに触れてみたいと思います。

長文にお付き合いくださり、ありがとうございました。

感謝を込めて

※掲載にあたっては、お師匠様の許可を頂いているものです。

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